プロフィール
前田千尋(マエダちひろ)。日本共産党・那覇市議会議員。現在4期目。厚生経済常任委員会委員長、なは市議会だより編集委員、沖縄県後期高齢者医療広域連合議員。『子どもの貧困』を無くすこと、誰もが安心して暮らせる社会を実現すること、基地のない平和で豊かな沖縄・日本を実現したい!辺野古への新基地建設を阻止するために奮闘中。
1971年4人きょうだいの長女として生まれる。上田小学校・伊良波中学校・豊見城南高校・沖縄大学を卒業。
JA沖縄信連臨時職員、沖縄民医連・沖縄協同病院に勤務。
2008年11月那覇市議会議員補欠選挙で初当選、現在4期。厚生経済委員会委員長、なは市議会だより編集委員、沖縄県後期高齢者医療広域連合議会議員。党県委員、南部地区委員。オール沖縄那覇の会事務局次長。
母は芙美子(新日本婦人の会沖縄県本部元会長、宮古島出身)、父は故・前田政明(元那覇市議、元県議、大宜味村出身)
平和運動が原点
「ひめゆり同窓会」の宮良ルリ先生は私の小学校時代の恩師です。沖縄戦の悲惨な体験の話は今でも脳裏に残っています。私は、両親に連れられ「ガマ」での体験学習や、沖縄民医連で働きながら平和ガイドや原水爆禁止行進団を団長として取り組んだことなど平和運動に参加してきました。その運動を通じて、ルリ先生のお話を思い起こします。命の大切さなど、先生が伝えようとしてくれたことを大事にしたいと思います。
(上の写真)沖縄民医連青年ジャンボリー
前列、右から7番目がマエダちひろ
弱いものいじめの政治を変えたい
「いつでもどこでも誰もが安心して医療と福祉が受けられる社会を」と活動する沖縄県民主医療連合会に勤めていました。そこで平和を守ることと命を守ることがつながり、「弱いものいじめの政治を変えたい」と日本共産党に入りました。
両親の背中をみて
私が幼かった頃、父は那覇民主商工会で働き、あまり家にいなかった記憶があります。母から「お父さんは商売人の苦労を聞きながら、解決しているんだよ」と話を聞きました。父は「頑張っている人が報われない社会はおかしい」とよく言っていました。自分も「一人ひとりのために役に立つ人間になりたい」と強く思うようになりました。その初心は、議員になってからも変わりません。
父・前田政明の遺志を引き継いで
2013年2月、父の前田政明県議会議員が不慮の事故で亡くなりました。私は、父のライフワークである平和運動に幼い頃から参加していました。父は、早朝に県道104号線越えの砲撃演習があれば、私たちを連れて行動に駆けつけました。私が眠たい目をこすりながら「何でここに来ているの?」と父に尋ねると、父は危険な米軍基地や沖縄県民のたたかいや平和への願いを語ってくれました。毎週のように嘉手納の安保の見える丘に通ったり、戦績めぐりのガマに入ったりしたこともありました。
1984年から続いている毎週金曜日の「核戦争阻止・核兵器緊急廃絶めざす核トマホークくるな昼休みデモ」が台風で中止になりそうになったときには私たち家族だけで歩いたこともありました。
父の市議5期16年、県議として3期9年、日本共産党の議員として、市民・県民の命とくらしを守る先頭に立って奮闘していた姿は私たち家族の誇りです。
「核も基地もない平和で豊かな沖縄をつくる」「子どもたちや孫たちが二度と戦争に行かない世の中をつくる」―父の口癖である、道半ばで成し遂げられなかったこの遺志を、私は引き継いでいく決意です。
市民の声に応える議員に
「ちひろ、日本共産党の党員としてみんなに求められたら、それに応えること。党員としての生き方が問われている。」
私は亡き父から言われたこの言葉で、2008年11月の那覇市議補欠選挙への立候補を決意しました。
住民の苦難軽減を立党の精神とする日本共産党の議員として、これからも住民の声を真っ直ぐ市政に届けます。